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ダイヤモンドの中心は、君

隣の家族は青く見える

きたむらたくみを推してきた人間として、出演が決まったときに思ったことを書き留めておく。
いわゆる同性愛者の役をやります、と聞いた時、一瞬あたまがまっしろになった。



ゲイの役を演る。そう聞いた時、初めはステレオタイプに描かれたものを、笑える感じに演じるのだろうか、と思って全然笑えなかった。
今はもう量が膨大すぎて追えなくなったけれど、たくみくんがまだ高校生の頃、ブログを書くたびにコメント欄が心無い言葉で溢れた時期があった。
少しでも肌を露出すれば下品だと言われ、軽く触れた性的な話題でもこれでもかというほど悪しき様に書かれた。はじめてのキスシーンなんてたいへんな騒ぎだったな。
たくみくんは天使だったから、天使を現実の存在として受け入れられず成長の証を叩き潰そうとする人はゾッとするほど多かった。そして何より怖かったのは、それを書く人たちがあからさまに己の性別を判りやすく解るように発言していたことだ。自分は男性の立場としてその言葉を発していると、解るように書かれている言葉の節々に、相手を抑圧したい征服欲が滲み出ていて吐き気がした。これを書いている人間たちが、普段のライヴで近くにいるかも知れない、その人たちがいつ、この現実の中で言葉の刃を取り出すかわからないと思うと、なんて危うい場所で歌ってるんだろうと、たくみくん自身が発する笑顔の尊さを思った。
何も考えてないように見えていたし、楽しいことだけ浴びてるように思えていたけど、初の武道館が決まった日比谷野外音楽堂で小さく膝を抱えて泣く姿を見たら、当たり前だけど震えるくらい怖かったんだと思った。どれだけの人がDISH//に心と時間とお金を割いても、己の歌ひとつで評価されること。センターに立ち続けなければならないこと。歩みを止めてはいけないこと。結果が伴わなかった時、逃げも隠れもできない立場であることはどれだけの恐怖が背中に伸し掛かっていたんだろう。
たくみのことを傷つけたくて仕方がなかった人たちは、それでも力を振りかざそうと思っただろうか。ステージで歌い飛び跳ねお前らかかってこいよ!と嘯くおとこのこは、受け入れられない「成長」の片隅にある「現実」の中で本当はずっとこうして不安に怯えて泣いていたことを目の当たりにしても振り上げた刃を仕舞えない人はいなかったと思いたい。
この日の野音も、裸の背中が写真に写っただけで恥知らずと叩かれていたなあ。そんなことばかりだった。コメント欄以外でも、品性のない言葉で穢そうとする人たちは山程いた。知らなかったらいいのだけど、と思いながら、情報の中にぽっかり浮かんでくるゴミを見なかったことにした。
「同性に性的な目で見られることがどういうことか」をたくみくんはよく知っていたのではないかと思う。「普通のカップル(ここで言う普通は、性差ではなく関係性が一方的ではない、という意味です)」は双方向性の愛情で初めて成り立つけど、己の表面しか知らない人たちにぶつけられて投げつけられる一方的な愛情の怖さを痛感してきたぶん、何が人の暴力的な部分を煽ってしまうか、いちど暴力性を纏ったニンゲンの思い込みがどれだけ激しいか、身をもって知ってきたはずのたくみくんが、ゲイの役を演じる。
そんなことが起こるんだ、と思うと、色んな思いを抱えて挑戦する分、絶対に成功してほしいと心から願った。意味があるものになってほしい、糧となるものであってくれ。放送前夜は緊張で寝れなかった。たくみくん自身は、放送日どんな心持ちでいただろう。
これから初めて会う朔という子、どんな子かな、いい子だったらいいな、たくみくんと仲良くやれる子かな。
いろんなことを考えながら迎えた初回放送日。あんなに画面の写真を撮りまくったのは初めてだったな。ぜんぶ切り取って持ち歩きたいくらい、1秒残らずぜんぶいい顔してた。朔ちゃんはたくみくんで、たくみくんが朔ちゃんだった。
ゲイということがわかりやすくアイコン化された「キャラクター」ではなくて、たくさんの恋をして歩いてきた男の子がいた。世界の中で強く戦う朔ちゃんは、僕たちが焦がれた天使そのものだった。たくみくんを見てきて初めて、たくみくんだからできる役だと思った。たくみくんは朔ちゃんに出会えて救われた人のひとりだけど、きっとそれはお互い様。たくみくんじゃなかったら、朔ちゃんはあんなに愛情深く優しさの強い人にはならなかったよ。人生に、もしもなんてない。運命なんて何度も感じるものではない。
「はじめてのキスシーンが終わったあと、ふたりで笑いました」
これを発したたくみくんが途方もなく好きだ。このエピソードで、関わった人たちや作品を愛する人たちは優しさとあたたかさに包まれたと思う。番宣もほんとかわいかったんだよね〜足つぼマットぴょんぴょん跳ねるとこ何度も繰り返し見たしいろんなもの食べてるところ見れるのも深キョンとのつーしょっとも嬉しかったなあ。
朔ちゃんはあまりにもたくみくんだったので、お芝居が上手かどうかはよくわからなかった。笑
花を愛でる朔ちゃんを見たら、散歩が趣味で空を見上げて写真を撮ったりバッタや花に想いを巡らせたりするたくみくんを思い出したし、わたるんのために何もできなくて途方に暮れてしまう朔ちゃんを見たら、「ぼくはできることのほうが少ないので、だから応援して下さい」と言ったたくみくんを思い出した。
描かれているのはおとこどうし、の恋愛だったけど、誰にでも当てはまる普通の恋を描いてくれていたから感じることがたくさんあった。何もできないなんてことないのに、寄り添ってくれるだけでいいとかそういうことじゃなくて、自分が弱っているときにただはなしを聞いてくれることだとか、それがたとえ相手の言葉を肯定しなくても相手にとっていちばん優しい言葉を選べることだとか、そういうわたるんにはできないことを朔ができること、それを渉がどれだけ尊敬しているか伝わってしまえない時間はとってももどかしかった。できないのが悔しいんじゃなくて、いつでも不安なんだよね。これはわたしのはなしだけど、恋愛してるときって自分が相手に尽くしてる間より相手がずっと与えてくれてる時のほうが、すっごい不安だったもんなあ。朔がキッチンに立ち尽くした時の顔は、きっとこれからも忘れてしまえない。
最終回、ほんとうに良かったよねー!仕事の関係で当日は見られなかったから後で観たんだけど、朔が「渉が家族をまとめて愛すること」を失わずに渉と家庭を築けることが嬉しくて嬉しくて。自分の性別を捻じ曲げることもなく、生き方を恥じることもなく、戦った朔はどんな花より綺麗でした。
これは、わたしが言語化できなかったことを友達が言ってくれたんだけど、この作品に関わったことで、朔ちゃんを演じたことで、たくみくんにとって男の人が男の人を愛するということへのイメージは良い方に変わったのではないかなあ。そういうことに偏見があったとは全く思っていないし、今までもそういう関係性の人たちに対して拒否感があったわけではないと思うんだけど、それでも観測範囲の偏りというのは避けられないから。世界が拡がったことで、様々な愛の形を知ったと思うしこんな優しい形もあるんだって肌で感じて向き合ったことがたくみくん自身の中に発生していた(かもしれない)かたまりをやわらかくほぐしてたらいいなあって思う。それはどんなに優しい世界だろうって思いを馳せずにはいられないのです。ほんと1から100まで憶測のはなしで申し訳ないけど!こういうふうに感じながら観ていました!重たいおたくでごめんね!!!
でも、すごく人の感情とか想いに敏感な人だし。そこまで気にしなくてもってくらい、周りの人のことを考えてしまうし見捨てられることを必要以上に怖がる人だから。その人がこれだけの「挑戦」をしたことへの意味、それそのものが持つ影響力、あらゆることを考えずにいられなかった。1年365日、たくみくんのことを一瞬も考えなかったという日はないんだよ。
あれ、何のはなしをするつもりだったんだっけ?
まだまだ新しいこと教えてくれるたくみくんさいこうにかっこいいしやっぱりずっとだーいすきってはなしだな、きっとそう。言葉にしたいことは、いつだってその結論への帰結を見る。
となかぞという作品自体の感想はまたそのうち書くかも。とってもいいドラマでした。