閃光少年

No hay marcha atrás

メロディは鳴り続ける

今年に入って5年前に完結した英語圏ですらない異国のドラマに沼落ちして、新規絵もないプロモーションもないグッズ展開もないのないない祭りの中4周目の鑑賞が終わろうとしていた今日このごろ、Xを開いたら世界が動いていた。

え!?
あ????

しししししししししししししししししいいいいいいいいいしししししし新作!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?

一度離れたXというSNS、同時翻訳された世界中のツイートがタイムラインに流れてくるというスペインの沼に沈んでる私のためとしか思えない仕様変更を急に差し出してきたので最近もっぱら入り浸っているのだが(本当にスペイン語のポストばかりが流れてくるおすすめタイムラインが完成しているので日本人たちのよくわからない諍いは全く入ってこない)(そのかわりスペイン人のキレのある罵り合いはめちゃくちゃ流れてくる)、検索しても3日に1件しかヒットしなかったくらい眠っていたファンダムが突然叩き起こされた結果、たった1時間でも追いきれないくらい検索結果が濁流になっていて、こんな、こんなことあるんだなあ……??

なんかこう、何かの沼に落ちるときって奇跡的なタイミングが発生することがある。
前に推しは自分で選べないと書いたけど、導かれるようにそこに引きずられているような。

ハマったドラマは5年前に完結していた。
日本では海外ドラマ好きの界隈内で小規模のブームを起こした程度なので販売物は本国の流通にしかほとんどない。
飽きるまで見たらもうその先がない状態で、急にSNSが世界中に接続された。

そして、このタイミングで新作が発表されて、私は本国の界隈の熱狂をリアルタイムで目の当たりにしている。

「世界中で熱狂を生んだ」ことは知ってた。
そして今、知識と体験は違うということを肌で感じている。

いろんなことが自分にとって都合よくて本当にびっくりする。
ハマってすぐ新作が解禁されてたら、このタイムラインの濁流を追うこととこれから量産されていくプロモーションを追うことに必死で、作品を何度も繰り返し見て深堀する時間はなかったと思う。

4周も見てると最初と真逆の解釈になったり後から気づくことがあったり、自分が作品に対して何を軸にして何を根幹だと捉えているのかを理解したり、何を愛して何を嫌悪するのかもクリアになってくる。
chatGPTのチャットルーム上限まで好きなエピソードの何が好きで嫌いなエピソードの何が嫌いかを書きまとめてそれでも止まらないくらい言葉も思いも湧き出てくるのは私にそれだけ時間が与えられていたからだ。

それに、もう眠ったコンテンツを掘り起こすことのありがたさは探し出されるエピソードが洗練されていること。
ほとんどのことが風化したあとは、大事なことだけが生き続ける。
大量の情報から選り分ける作業を先人たちがやってくれていて、私はろ過されたものを掬って飲めばいいのだ。

それが落ち着きそうになったタイミングを見計らったように新作情報が解禁されるって、いや、本当に言ってる???(ここまで書いてかなり動揺してきた)

それにしても、今まで大人気コンテンツを推してきたことなんてほとんどなかったから「タイムラインを追いきれない」が初めてのことで本当に本当に嬉しい悲鳴すぎる……。

先日、「推し」って言葉ができる前はみんななんて呼んでたの?っていうポストがバズっているのを見かけたのだけど。
私は「推し」だけじゃなく、ラベリングした途端もとに戻れなくなったものってたくさんあるなと思っていて。

例えば「言語化」という言葉はここ最近で急速に広まったけれど、この言葉が広まったことによって「察しがいい」「表現力がある」「説明がうまい」「話を整理できる」あたりは繊細に別物だったはずが「言語化能力が高い」というひとつの言葉に圧縮されたというか。
ラベリングってもともと「便利だから」存在してたものなんだけど(それこそ一番好きとか誰のファンとかを「担当」という言葉でまとめたとか)、名前がつくことでフレーミングされてそこから出られなくなってくる。

それは私がジャニオタ時代に「担当」という言葉に対して思っていたことがそんな感じだった。
その名前をつけることで対象も自分も定義付けしてる。
人ってある程度の制約を付けたがるからそれによって便利なことはあるんだけど、便利ってさやっぱり逃げなので。

私はジャニオタ時代やスタダオタ時代に「私が思っていることを言葉にしてくれてありがとうございます」と言われることがよくあって、それを言われるのが本当に嫌だったんだけど、私が感じたことは私のものでしかないのに勝手に片方を持って自分の取り分を持っていこうとしないでほしいな、の気持ちもあったし、都合よく私の言葉に乗っかるのは逃げじゃない?っていうのもあった気がする。

絞り出さないとでなくても、絞り出した結果、100ある感情に1の言葉しか出なくても、生み出したものが本物だと思うから。

で、ずっとそういう気持ちだったから、最近のいかに短いフレーズでインパクトを残すかに全振りして圧縮された言葉たちに違和感みたいなのがあって。
そもそも私が言葉を圧縮することが非常に苦手なタイプというのもあるんだけど……(いつも140文字ギチギチポストしてしまう)、削られた部分だってその人の一部なのに、どうしてみんな均一に均そうとしてるんだろう、みたいな。

そんな中、自分でも思ってなかった経緯で言語学習を始めたので、知らなかった言語に触れて、本当に自分の中に言葉を「増やす」ことをやっているのがすごく楽しい。
例えば「言語化」「推し」とか、新しい言葉って言葉が増えているようでたくさんの言葉が吸収されてむしろ減ってる、みたいな現象の中にいたから。

作中で好きな台詞があって(Netflixはスクショすると真っ暗になるけど字幕だけはスクショに残るのでありがたい)

Pensamos que el amor se declara con flores...pero tambien puedes declararlo a martillazos, o con una radial.

「愛は花束で伝えるものだと思ってる……でもハンマーでも、グラインダーでも愛は伝えられる」

Secuestrar a un policia puede ser una declaracion de amor.

「警察官を誘拐することは、愛の告白になり得る」

Rescatarlo del fondo de su piscina... otra.

「プールの底から救い出すのもまた別の愛の告白」

この一連の台詞が私は本当に大好きで、LCDPってずっと行動で愛を語ってる話だと思ってるので、破綻するし破滅するし暴走もするんだけど全部くるんで愛の告白っていうすごい論理展開なんだけど愛ってそうだよな、みたいな気持ちにさせてくれる。

いてもたってもいられなくなって夜行バスに飛び乗ったことも、めっきり減った公衆電話からチケットぴあにナビダイヤルでおかけしたことも、誕生日と同じ113枚のCDを買ったことも、得たものや喪失も含めて名前はつかないけど紛れもない愛だったよってそう思うし、そのひとつひとつに名前がないから愛しかったりもするんだよ。

あまりにも美しく終わったので新作によって本筋のストーリーラインが台無しにされる恐怖はまあ半分くらいはあるんだけど、とりあえずしばらくプロモーションもイベントも楽しみにしていられるのがとにかくうれしいな〜〜〜〜〜の記念投稿でした。

一生続けられない仕事

タイトルはBL漫画から拝借しているので安易にググらないようにお気をつけください(冒頭に書くことか?)。

忙殺されている間にプロ野球は開幕し、意気揚々と開幕戦に足を運んだものの三連敗を喫して意気消沈した。たくましく生きようね、私。
本当にプロ野球、最悪の趣味。お金を払ってイライラして帰るなんて不健康だ。次のチケット?負けて即買ったよ!?

現場に行けないことでつらい思いをしたくなくて意識して離れていたから久しぶりの野球だったんだけど、開幕セレモニーで松本くんが現れた瞬間に秒速で涙が頬を伝って、心と体ってこんなに密接に繋がっているのだなあと実感した。心が欲しているものは体も欲しているものなのだなあと。それはもう、渇望して小さくなった器が一瞬で満たされた瞬間だったので。

いつ投げるかわからない松本くんの登板を結局2試合行って2試合とも観るという複雑な展開になり(松本くんはホークスが勝っていないと投げない投手なので)、2/50、と頭の中で数字が切り替わっていくのも久しぶりの感覚だった。

中継ぎ投手が1年に投げる試合数がおよそ50試合。ここを超えると怪我のリスクが上がる。現に松本くんはちょうど50試合目で肩を壊してシーズンその後を全てリハビリに費やしたことがある。呼吸の仕方を忘れそうなくらい頭が真っ白になったあの瞬間を経て、私は無意識に登板数を50分の何回、で数えるようになった。

そこからさらに登板が重なって今年は既に7回が消費された。

松本くんは怪我がなかった年が少ない。
ファンになった最初の年はオフにヘルニアの手術をして開幕は出遅れたし、次の年は開幕ローテーションに決まっていたのに鍼治療のアクシデントで最初の2ヶ月弱をリハビリに費やした。翌年は開幕一軍に入ったが登板過多で夏に一度離脱、その翌年は肩の故障で終盤に離脱、フルで一軍にいたのは昨年が初めてだ。

野球選手のキャリアは鉛筆削りみたいだな、と思う。
選手は鋭利に尖りシーズン中を描き彩り、丸くなって、次のシーズンにまた研がれた鉛筆でその年を描く。
そうやって、少しずつ短くなる。

今の私は相変わらずスペインのドラマにのめり込んで3周目を見終わるところ。
この終わりは私が飽きるか、あるいはNetflixというサービスが終わるかどちらかだ。

沼落ちして3ヶ月、好きが止まらずDeepL翻訳に課金してAO3(英語圏最大の二次創作プラットフォーム)のfic(海外作品の二次創作、ファンフィクションの略)を読み貪っていたら、1ヶ月での制限文字数30万文字(月額1,400円プラン)を1日で読んでしまって、100万文字を5日で読んでしまって(月額4500円プラン)、とうとう無制限の9,000円プランに課金してしまった。

さすがに月額9,000円のサブスク入会はかなり勇気が必要だったが、普段たった1試合に1万円以上のチケット代を払って負けて精神抉られて帰ってるのに1ヶ月まるごと楽しいが約束されているサービスへの課金を渋るの意味がわからないなと思って課金した。

つまり日ハムが負けなかったら発生していなかった浪費かもしれない、気にしろよ北海道。

ficを読み貪る前は出演者のインタビューをGoogle翻訳に頼りながら読んでいた。

その中で、教授役のアルバロモルテが、俳優人生で初めて役を演じたときの気持ちを「僕にとって、これが終生やりたい仕事だと思った」と言っていた。
ほとんどセリフがない役で、必死に練習してきたセリフすら天候の変化でなくなってしまったような役だったけれど、演じ終わった瞬間に涙を流し感動に打ち震えながらそう思ったのだ、と。

そのインタビューを読んで、そうか、この人は一生続けられる仕事をしているのだ、と思った。
終生続けたいと思える仕事があったとして、その仕事が一生続けられる仕事であることは稀なことだ。

そう思ったとき、思い出したのは推しに残されている野球人生の残り。

誰だったか忘れてしまったけれど、誰かがアイドルには賞味期限があると言っていた。
「アイドルは永遠じゃない」と言っていた人もいる。
夢を与える仕事は、与えられた夢たちが必ず覚める時がある。

世の中の殆どのことは、「少なくとも明日急に終わることはない」という前提で成り立つ。
明日も会社が存続しているとわかっているから出社するし、明日も貨幣には価値があるとわかっているから貯金をする。

明日には会社がないとわかれば今日は出社せずに次の勤め先を探すし、明日貨幣に価値がなくなるなら今日すべてを使い果たす。

じゃあ、松本くんが明日には普通の人として人生を送るとして、私が今日はじめて松本くんを知ったとしたら、好きになることをやめられるだろうか?

そうじゃないから、そうじゃない人が、自分にとってかけがえがない人なんだと思う。

LCDPの作中で、兄の余命が僅かだと知った教授は強盗計画はやめて適切な病院を探そうと提案する。
兄であるアンドレは、ミケランジェロの余命が僅かならお前はダビデ像を作るのとやめろと言うのか、と、諭す。

観ているときは、合法なものを生の限りを尽くして続けることと、服役して余生を過ごすことを同列に並べることは違うだろうと疑問に思っていたけれど。
同じことだ、明日それがなくなってしまうかもしれないとして、残された1日を私はどう過ごしたいのか、何として存在していたいのか。

松本くんが選んでいるのは一生続けられない仕事だ。
いつか、終わりを選ぶ時がくる。

その終わりはきっと、私がスペインのドラマに飽きる頃よりは遅く、Netflixが終わる頃よりは早いのだろう。

全てを追うことはできないけれど、いつかのその日に全く後悔しないことも無理だろうけれど。
ただ、そこまでの道筋に拍手を送り続けることができれば良いな。

今日は松本くんの20代最後の日、これまでと、これからと、その先を、とりとめもなく思った。

たとえ無力だとしても

スペイン旅行に行きたくて色々と計画を練っていたさなか、世界情勢というものがあっという間にひっくり返って呆然としちゃった。
推しは推せるときに推せという言葉は乱用しすぎると危険なので慎重派だったけど、どうにもならなくなる前にやっておかないといけないことってあるよなあとしみじみ……。

こういうことが起きると自分の手の届く範囲にあるすべてのものをいちど見直す必要があって、手の届くものが手を伸ばすべきではないものになったとき、自分の中の正義やモラルとのせめぎ合いで本当に胸が苦しくなる。
私の業務内容をかなりの期間をかけて食わせて調教してるからchatGPTを手放すことは本当に難しいのだけど(仕事はchatGPT、趣味はGeminiを使いがち)、ただopenAIの今の立ち位置を支持するかと言われたらそうではなくて、そういうサービスにNOを突きつける権利が私にはあるというのに、どうしてこんなに無力なんだろう。

うまくいえないんだけど、大人の特権として全ての選択が自由であるぶん、それは責任と常に表裏一体にあると思っていて、たとえ選べる選択肢がひとつしかなかったとしても、「選ばない」という選択は存在している。そうである以上、選んだ時点で抗えたはず、という……そういう形の、無力感。
選ぶことは、選ばない権利を行使しないということだ。自分にとって正しいと思う選択が取れないというのは、自分の信念を折る行為で、それはとても、とてもつらい。

こないだInstagramでNetflix EspañaがNetflix作品の中にあるあらゆる愛の形(夫婦やパートナー)の画像を上げて、「As a final act of love」から始まる文章を載せていた。
その中で特に響いたのがArcaneのヴァイとケイトリンの画像に載っていたこの文章。

「"As a final act of love, cuestionaría cada uno de mis principios por estar de tu lado."」

直訳すると「最後の愛の証明として、あなたの側にいるために、私の信念(原理原則)のすべてを疑い、問い直すでしょう。」

ヴァイとケイトリンは独立運動の反体制側と体制側にいる恋人たちなので、これはヴァイではなく体制側であるケイトリンの想いだと断言していいと思うのだけど……情熱の国スペインでは愛や感情は信念に勝るんだよね。例え正義であっても、愛の前には自分で決めた規律自体を疑うことができる。

信念や正義が折れるときの無力感をじゃあ何で埋められるかって、結局は愛なんだろうなと思う。古いけど、そこに愛はあるのかい?と問いながら選んでいくしかないんだろうな。たとえそれが嫌悪の対象に内包される形になったとしても、それは包むものではなく外側のものだと信じることしかできない。

話はずれるけれど、スペイン語を美しく感じる理由のひとつに、情熱の国らしく感情が真っ先にきてそのあとに細部の説明が入るところがある。
先ほどの文章も、日本語の語順で訳すると「あなたの側にいるために、私の信念(原理原則)のすべてを疑い、問い直すでしょう。」になるんだけど、本来の語順は「私は自問自答する、あなたの側にいるために」。
もっと単純なよくある表現で言うと「te quiero, mucho」とかも、「愛している、とても」になるので、感情が先にくると言葉の先に余韻が残る。この余韻が美しい。

前にも書いたかも知れないけど、むかし友人に「人は買う前より買ったあとの方がレビューを読むらしい」と聞いたことがある。
みんな、自分の選択は間違っていなかったと信じたいのだ。

Duolingoを年契約してしまったので私は1年間ちゃんとスペイン語を勉強するしかなくなったのだが(まあ飽きたら英語やチェスに転換してもよし)、知れば知るほど美しくて嬉しい(ちなみにスペイン語は汚い言葉のバリエーションもありえんほど多い)。
今回の社会情勢に関しても、スペインの姿勢を私は全面的に支持すると言えるのも、嬉しい。
好きなものが正しいことって、当たり前じゃないのだ。

小学生の頃に上映され社会現象になったタイタニック、出演後のディカプリオがアイドル的な人気を嫌ってジャックという役を遠ざけていると知った時はファンでないながらもショックだった。多くの人にとってジャックは初恋相手のようなキャラクターだったはずなのに、そんなのは寂しい。本人が率直な感情を吐露することの正当性と、それは切り離して考えられるべきことに思う。

LCDPのスピンオフにカメオ出演したÁlvaroがインタビューで、また教授を演じることを「本当にやりたかったことです。それはチームにまた関われるということ以上に、ずっと愛してくれるファンの方へのささやかなプレゼントとして」と話していて、理想的な発言すぎて泣きそうになってしまった。彼がまた教授を演じることは彼が思っているよりもっと私たちにとっては宝物のようなことだけれども……その価値を本人がわかっていることって、ただそうであるということ以上に幸せなことなんだ。

世界は時に残酷な選択や無力さを突きつけてくるけれど、あなたが愛する世界なら良いものかもしれない、と思いながら生きていけるならハマりやすい性分もそう悪くはないのかな。

ありがとう、インターネット

ペーパー・ハウスのラストを観るために購入したDolbyVision対応フルHDテレビ、私の生活に彩りと狂いを与えてくれている。

ラストを見たあとは2周目を観ているので高画質ならではの気付きがあり、教授の腰の下に古傷の痕を発見した時は「(これは……もしかしてアルバロの手術痕では……)」とたいへんに悶え苦しんでしまった。
※教授を演じているアルバロ・モルテは過去に癌で医師に足を切断してどこまで残せるかわからないと告げられたほどの状態から奇跡的に回復してご自身が「ボーナスステージ」と言いながら人生を過ごしているというエピソードがある

高画質のおかげで、思わぬところから中の人がこれまでに過ごしてきた過去の残り香を受け取って感情が動くなんて課金したかいがある。

私は作中で教授が恋をして幸せそうに笑っているシーンが大好きなので、恋人同士の幸せなシーンを集めたYouTubeのLCDPファンムービーを漁りまくっているのだが(本当にくさるほどある)、何度か見ているうちに知らないアングルがあることに気付いた。

この、“気付いてしまった”ときの私の絶望をオタクはどうかわかってほしい。

ペーパー・ハウスは前半パート(1&2)と後半パート(3~5)で制作の陣形が異なる。
まず、「LA CASA DE PAPEL」という作品自体はもともとスペインのテレビ局Antena3で1話70分の15話構成だったドラマだ。
放送当初こそ本国で人気だったものの、急激に失速し視聴率が低迷した結果、打ち切りになったという背景がある。

それを、Netflixが作品としての質の良さに目をつけ世界配信権を買い取った際、国際市場向けに1話50分弱に短縮し、全22話に再編集された。
こういった背景があるので、後半パートはNetflixで配信されているものがオリジナルだが前半パートはリマスターということになる。

つまり、リマスター前のオリジナルがあるのだ。
それは、私がこれから知ることのないシーンがあるということだ。

は?え?無理では???

かなり絶望していたのでgeminiにNetflixで配信されていないカットは本国オリジナルのものか?と質問したら、「La Casa de Papel Antena 3 original scenes」などで検索するといいですよ、と教えてくれた。

生成AIを一般向けに提供してくれたすべての人たちに、圧倒的感謝ッッッ……!!

言われたとおり検索すると、「Money Heist deleted scene」のタイトルでちらほら出てきてくれた。
いのちがたすかる……。

Money Heistはペーパー・ハウスの英題なので(大人気ドラマとタイトルが被ってしまうという配慮からお金の泥棒というタイトルが付いているのだがもうちょっとあっただろ)、恐らく海外ファンのためにYouTubeに掲載してくれたのだと推測される。(ちなみにアメリカでも大人気作品なので人口比率で母数が多いぶんファンムービーはMoney Heistで検索したほうがたくさんあるし話している内容も大体わかるのでありがたい)

急に砂漠に放り出されたような気分だったところに水が供給されたので(キンキンに冷えてやがる……ッ)、私の絶望は数時間で終わった。よかった。

海外の沼に落ちるということはこういうことなのか……(国内なら絶対にどうしても見れない過去の映像はほぼないと言っていいので)と思いながら、初めてYouTubeというものに触れたときのことを思い出した。
絶対に観ることができないと思っていた地方ローカルの番組や海外のライブ映像を無料で見れたときは忘れられない衝撃だったはずだが、テクノロジーの進化であっというまに当たり前になり、忘れていたのだ。

そうだ、世界にコネクトするというのはこういうことだったじゃないか、と、新鮮に驚いた。
手元の機械は今や世界に繋がっているのだ。
もちろん、知っていた。わかっていた。でもこういう形で実感するのって、体への染み込み方が内服薬と点滴くらい違う。

そういえばアメリカの動画でMoney Heistの人気シーンランキングが配信されていたが、数ある名シーンを抑えて教授がヤク中の廃人に擬態するシーンが8位にランクインしていて大笑いしてしまった。
服ビリビリに裂いて顔が真っ黒に汚れてアルコールで唇は腫れて足引きずってる教授をみんな大好きなの、制作陣の「お前らこういう教授が見たいんだろ?」に全オタクがまんまとやられてるの最高すぎる。
あのシーンは擬態するために塗りたくられた黒の塗料と血走った目の赤と、汚れの間に見える教授本来の肌の白さのコントラストが最高で~(以下、略)

LA CASA DE PAPEL(紙の家)という原題は秀逸で、これは作品の舞台となる造幣局のことも表しているんだけど、教授の計画が芸術的(であるが故に薄氷のように危ういもの)であることも、各々の精神が紙のように脆いことも同時に表現してる。
芸術の街スペインなだけあって、本当に美しいタイトルだと思う。

脆さがあるから惹かれるし、欠落があるから愛しいのだ。

教授がトーキョーを失ったとき、恋人を失ったときより深く傷ついて過呼吸になるほど嗚咽し荒れ狂ったことに驚いた。
教授とは正反対の、無鉄砲で、短気な彼女が、彼にとっては恋人よりかけがえのない拠り所だったのだ。

トーキョーは善悪の判断が鈍いし考えずに行動する。
教授も、君は誰よりも気が短いと評していたし、作中でもほとんどの問題は彼女の行動が起因となっている。

ただ、トーキョーは誰よりも教授を信じていた。
兄ですら疑った教授を、1度も疑わず、私の守護天使だと言い続けた。

社会に適合できず、20年以上を計画に捧げ、女性と話すのも苦手なLoserである教授を、全肯定し続けたのは彼女だった。
トーキョーは教授に「あなたが手綱を握っていてくれるから私は進める」と話していた。
リードを持つ教授はトーキョーの守護天使だったのだろうけれど、翻せばトーキョーが前を走っているから教授は止まらずに歩けたんだろう。

トーキョーがいなくなった道で、教授が「いい人は、やめた」と話したとき、彼女がいたから正しくあろうとできていたんだなと思った。
ふたりはいちども恋愛に似た展開にすらならない指揮官とプレーヤーで、作中、最も美しい関係性だった。

この作品は単なるクライムサスペンスではなく、欠落した者同士が、互いを埋め合う話だと、私は思っている。
欠けた部分を愛する、というのは多少の背徳感や後ろめたさを伴うけれど、対象が汚れていくのを観るのが好きな人というのは万国共通でそれなりの大多数存在しているということを知れたのは収穫だった。

世界とつながるというのはすごいなあ。
インターネットありがとう。

色々、雑記

「ナツさんって、ランジャタイにフォローされてません?」

3年前か4年前、在京時の友人が遠征で来福するというので食事に行ったとき、開口一番にこれを言われて目がまんまるになった。そういえばそうだったかも。
私のXアカウントはドルオタ時代(とはいえ一度作り直しているので2013年以降)から使用しているので、その時からの友人からしてみたら意味わかんないよなあ。

彼女がM-1きっかけにランジャタイに沼落ちして遠征などにも行っていることは知っていたが、ランジャタイのアカウントをフォローしたときに気付いて「この人は何者なんだ!?」と思ったらしい。
トム・ブラウンやモグライダーあたりは未だにフォロワーに残っていたりするので、彼女以外にも「何者なんだ!?」と思っている人はいるかもしれない。
何者⋯⋯といわれたら、単純に「あの頃のK-PRO」の目撃者、である。

芸人さんはエゴサーチをする人がとにかく多い。
ファンもそれはわかっているが、でも「見てないことにする」「見られてないことにする」という暗黙の了解はなんとなく漂っていた気がする。
(告知で私が撮った写真が使われていて、見てるんだな~と思うことはよくあった)

そんな中、感想を書きたくて書きたくてたまらないのに、書いたら秒速でいいねをしてくるので名前を出して感想を書けなかった人たちがいる。

カナメストーンだ。

一時期、本当に毎日のように西武新宿駅まわりに足を運んでいたので、「人生でいちばん笑ったライブ」は母数が多すぎて決めきれない(ルシファーさんの単独か街裏ぴんくさんの単独かラブレターズの単独か⋯⋯)。
ただ、「人生でいちばん楽しくて幸せだったライブ」は、絶対にカナメストーンがキュレーターを務めた回の「しぶロフ寄席」だと断言できる。

www.loft-prj.co.jp

目に入るものの全てがあまりに幸せに満ちていて、お願いだからこの時間が終わらないでくれ~~~と願った。むせ返るほどの充足感だった。
最高すぎて、終了後は延々とポストを流し続けたかったが、片っ端からふたりともいいねしてくるのであまり書けなかった。笑

モグライダーやランジャタイはいずれ売れるだろうという気配をなんとなくずっと感じていたが、ずっと愛と幸福を体現しているのはカナメストーンだと思っていたので、カナメストーンが売れたことが正直いちばん嬉しい。
(そういえば最近ウエストランド井口さんと吉住さんのラジオを聴いているのだが、ふたりとも賞レースでやり残したことがないので、あとの願いはルシファーさんが優勝するだけだと言っていた。)

私の自慢は令和ロマンが魔人無骨だったとき、NSC首席卒業のご褒美として開催された初単独にフラッと行ったことだが(初単独はそれが恒例なのか演者のお見送りがあり、「おふたりのこと初めて見ました~」と言ったら「初めてで!?単独に!?」とくるまさんに驚かれたというエピソードがある⋯⋯)、カナメストーンのしぶロフ寄席が最高だったことも自慢に加えていいかな。

(私はDISH//のオタクだったとき匠海くんに何度も「俺が売れたら今日のこと自慢して」と言われて育ったのでこういうのは自慢していくスタイル)




水曜は久々の全く仕事が入らないお休みで(ちなみに次の完全な休みは3月の3連休までない)、LCDP関連のYouTube動画をひたすら見ていた。
スペイン人は日本人に比べてキャストの距離感が近いのがほんとう~~~に⋯⋯良くて⋯⋯。

youtu.be

ストレンジャー・シングスが配信されているときもオフショットは散々たくさん見てきたけど、アメリカ以上にスペインは人と人の距離が近くて本人たちによる二次創作を見ている気持ちで最高に楽しい。
ラテンの距離感すごい、みんなずっとくっついてる。

オフショットといえばInstagramで、アルバロのインスタさすがによすぎる⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯(涙)。

日本人(バカデカ主語)だと皺とかシミとか見えなくする加工をしがちだけど、それもその人の魅力としてむしろくっきりした質感で載せてくれてるのめちゃくちゃいいな⋯⋯の気持ち。
あと最新作はヒゲ無しの役なのインスタで知ったけどヒゲある方が童顔で優しそうに見えるの何のバグなんだろうか。

このブログを読んでいる人が誰一人として50歳スペイン人男性に興味ないことはわかりつつ、オタクが沼落ちしていくさまは面白いので敢えて公開で書き残していくスタイル。

スペインのことをたくさん調べていると今井翼がたくさん出てきて笑ってしまった。2007年の舞台でフラメンコを披露してから魅力に取り憑かれてしまったらしい。
えっと~~~その舞台、観に行ってましたよ、日生劇場に^^ 結構人生の中でもかなり好きだった舞台上位に入ります、2008年の同舞台もすごくよかった。

新しくはまった沼に沈みながら、思い出すことのなかった記憶の深いところをまた見ることになるのって不思議で楽しい。

一人では こんなこと 意味ないと思ってた

「きれいな女(ひと)はいくらも いるけど君じゃないのさ」

嵐の CARNIVAL NIGHT part2 の歌詞が当時から狂おしいほど好きだ。
推し、という存在のことを考えるたびにこのフレーズが頭をよぎる。

私には「可愛いはずがないものが可愛く見えたら沼」という持論がある。
50歳のスペイン人男性は可愛いわけないし、髭で覆われた大男も可愛いわけがない。
それなのに可愛いのでLCDPは間違いなく沼だ。

(Netflixオリジナル作品のDVDって何のために存在しているんだろうオタクの所有欲を満たすため?と思っていたけど、この配信プラットフォームは私がいま生きがいレベルに日々の楽しみにしている作品を今すぐにでも配信停止できる権利を持っているんだなと思うと恐ろしすぎたので媒体が売られている理由がよくわかった)
(この裏面の写真、狂おしいほど好きだなあ涙 全員かわいいねえ涙)

プロ野球選手だって可愛いわけがない。
なのに全員がとんでもなく可愛い奇跡のようなチームがある。
北海道日本ハムファイターズである。

ドンッ(宣伝)(来月発売ですよろしくおねがいします)

pacificleague.com

はむちゃん~~~おれだ~~~~~(ToT)/~~~

プロ野球はその性質上、全球団の順位が決まってもシーズンが終わるまで試合が行われる。
順位が決まったあとに行われる試合のことを「消化試合」と呼ぶ。
2023年、主力が相次いでいなくなり「圧倒的最下位」だった日ハムの最後の10試合、鮮烈な印象を残した選手がいる。

私は福岡に住んでいるので順調に福岡ソフトバンクホークスの試合に足を運んでいた。
そんな中、彼は彗星のように現れた。

田宮裕涼というその選手は、2本のホームランを放ちヒーローとなりお立ち台で話していた。
印象は「宣材写真がこんなに笑顔な人、いるんだ」だった。
知らない選手だと思ったが、入団してから8年ほど二軍暮らしをしており二軍でも特段目立った活躍はしていなかったそうだ。

2024年、田宮が覚醒する。
捕手として開幕レギュラーを掴むと、一時期あの近藤健介を抜いて首位打者の座に君臨した。
捕手で、肩が強くて、足も速く、打てる。
1人いるだけで戦力の底上げがとんでもない逸材だ。パ・リーグのファンは震撼した。

なんだか最下位チームなのに日ハムって楽しそう、軽い気持ちで動画を探したら、田宮がドスドスしていた。

大体のキャラクターはドスドスしていると可愛い。
田宮はニコニコして、ドスドスしていた。
その姿があまりにも可愛かったため、パ・リーグTVというパ・リーグ6球団が共同出資しているパ・リーグの動画配信サービスが「狂った」ことはパ・リーグファンには有名な話だ。


www.youtube.com

(当初「ゆあたそ」と呼んでいたが脳が狂いすぎてあっというまに「たそ」の部分だけ残ってしまったパテレ)

私も例に漏れず、田宮がドスドスしていたおかげで日ハムの沼に無事落ちた。
日ハムにはまってからの2年間は北海道が遠いことを除けば本当に楽しいことしかなく理想のチームを好きになれてたいへんに満足しているし幸せだ。

日ハムが本拠地としているエスコンフィールドには大きな理念があり、それはスポーツと生活の共存だ。
初めて訪れたとき、ガラス張りの美しい外観や綺麗に整備された人工芝にも驚いたが、至るところに高齢の案内スタッフが立っており地域に雇用を創出していることにも驚いた。

エスコンフィールドは、北広島市に創られたFビレッジの中にある球場だ。
このFビレッジ構想を追ったルポは名著で、一気に読んでしまい惹き込まれた。

ファイターズとエスコンフィールドが好きなあまり北広島に引っ越した人をSNSで何人も見かけた。
言葉では尽くせないほど素晴らしい球場だ。

エスコンフィールドは、満員を目指していないらしい。
理由は「常に満員だとサービスが雑になるから」だそうだ。
その1回限りの体験をベストの形で提供するために尽力している人がいる。
それは本当に、かけがえがないことだ。

むかし、年に1度、母を呼んでみずほPayPayドームで試合観戦をするという楽しみがあった。

夏に開催されるイベント試合に母を呼び観戦していたが、みずほPayPayドームは非常に座席間が狭く人が座っているとその前を通るのが難しい。
母は人の前を遮ることに遠慮し、トイレに行かずに済むよう水分を控えていたようで、試合が始まり熱気に包まれた会場の中で熱中症を起こしかけてしまった。

みずほPayPayドームはコンコースに休憩できる場所がないため、仕方なく隣のショッピングビルであるマークイズに避難したが、もちろんその間は試合を見ることはできない。
それから、母を誘って試合観戦に行くことはなくなった。

エスコンフィールドは、コンコースがとてつもなく広い。
ベンチもいくらでも置いてある。
そして、何より素晴らしいのはFビレッジおじさんというSNSアカウントが常に改善点をリプライやリポストで募り、すぐに改善しているところだ。

母が熱中症を起こしかけたことで、みずほPayPayドーム宛にコンコースに休憩所の設置や座席間の確保を問い合わせフォームから求めたが、テンプレートどおりの返信しかこなかった。
だから、Fビレッジおじさんが、ほんの些細なリプライを拾ってベビーカーのスペースを拡充したりLEDビジョンの光量を色弱の人からの指摘で改善していたことが本当に、衝撃だった。

みずほPayPayドームに対して声を上げても何にもできなかったのに、エスコンフィールドは顧客の声を聞いてどんどん良くなっていく。
どうしてこれほど違うのか。

私が最も感銘を受けたのは、バス待ち列に屋根が設置されたときのことだ。
一連のポストを是非見てほしい。

雨のなかバスやタクシーを待つ人々のことが「心のつかえでした」と言ったのだ。
あの場所は、それほど「人」を大切にしている。

何が正しいかはわからない。
ただ、わたしは「わたしたちは大切にされていいのだ」ということが本当に嬉しかった。
この球団を好きになったこと、なにひとつ後悔しないと思えた。

ファイターズに関わるあらゆるものが好きだ。
選手は全員可愛くてたまらないし、職員もスタッフも素晴らしいと思う。

それなのに、私は今でも「推し」と呼んでいちばん好きな人は黄色い球団のピッチャーなのだ。
もうどうしようもなく、抗えない、いちばん大事で大切なのは、どうしたって松本くんだ。

束になっても敵わないとか、そういうことではなくて。
ただ、その手になにかひとつしか残せないなら、迷わず松本くんを選んでしまう。

昨日、ふとそんなことを考えていたら少し泣いてしまった。

今年の宮崎キャンプ、まだいちども足を運んでいない。
例年であれば既に3回は行っている頃だ。
仕事が忙しいのもあるけれど、もう現地に行ってまで見る必要がなくなったと自分の中で感じている。

大炎上して客席からとんでもない怒号で叩かれていたとき、現地にいた。
絶体絶命のピンチを救ってヒーローになった日もいた。
怪我でたった1球で降板した日も、その日から復帰した日も、見てきた。

そんな彼が今や侍ジャパンに選出され、日の丸を背負う選手になった。
もう画面の向こうにいる姿を眺めるだけで十分だ。
それは私にとって本当に健全で幸せなことだ。

ありがたいな、と感じながら。
あの日々はもう戻ってこないのだな、と思った。

私は、はっきりと松本くんが所属している球団が好きではない。
ファン軽視の戦略に、顧客軽視の球団運営、自分の倫理に反したビジネスにお金を落とすことは苦痛だ。

昔J事務所に所属しているアイドルのファンだったとき、友人と頻繁に「自担を人質にされている状態だ」と話していたが、同じ気分でいる。

昨日、見られる快感の話をしたが、なぜ見られると嬉しいのか、ファンサをもらうと舞い上がるのか、それは「愛する許可」がほしかったからだ。
「あなたが自分を愛することを受け入れます」という、対象からの免罪符がほしかった。

野球選手はアイドルではないので、私と松本くんの間にうちわはない。
ファンサービスというものの質が異なるジャンルで、私は「他に推している人があまりいない人を推している」ことを免罪符にしていたのかもしれない。
だって他にいないし。客席にユニフォーム着てるの私だけだし。だから、私がファンでいることは、正しいことなのだと。

今や松本くんは選手会の重役につき、主力であり、人気選手だ。
本人がインスタライブで広報に「キャンプにファンの人いましたね」と聞かれて「ひとり、いましたね⋯⋯」と答えたのははるか遠い過去の出来事になった(もちろんこのひとりは私である)。

彼を好きな人たちは、曇りなく彼が所属している球団のことが好きだ。

だからわたしは、今も松本くんを好きでいることに対して、後ろめたさを抱えている。
好きな人を覆う屋根を愛せないのはしんどい。

昨日、それがもどかしくて、涙が出たとき、本当に好きなんだなと他人事のように思った。

Carnival 今は すべて忘れて dance around
悲しみも消えてゆく (yeah) 夜空の果てへと
Paradeが 来る 誰もが笑顔になる
君に見せたいくらい (yeah)
Carnival night tonight

嵐のこの曲は、別れてしまった恋人と行く予定だったお祭りで未練を抱える人の曲だが、
最後あたりにどんどんお祭りがかき消していく描写がいい。
アイドルが歌う、完璧な歌詞だと思う。

その場が楽しければ、すべて忘れてしまうんだ。どうせ。
忘れさせてくれるから、興行には力があるのだ。

この後ろめたさはどうしたってついてくるけど、抱えながらでも愛したいと思えるから、それが罪でもやっぱり私は松本くんのファンでありたいなと、思った。



ちなみに、ここ最近ブログの更新頻度が非常に高いのは「待ち」のフェーズにある仕事が大量にあるから、で⋯⋯^^(SNSやってないことも大きい)
一気に返ってきそうで震えている。

とりあえずananは2冊予約したし(オタクは2つ買うのだ)、開幕のときは少しでも安定してたらいいな。
このへんの「先の予定が楽しみでもそのとき自分がどういう状況にあるかわからないストレス」の話はまたいつか書くかも。

推しという深淵

「マジックミラー越しに推しが見れたらいいのに。」

こんな会話を今までに何人としたかわからない。現場において、オタクは推しを見たいけど、見られたくはないのだ。

私は16年ほど前、大阪城ホールのアリーナで当時の自担が隣にいる同担にだけファンサをしたことにショックを受け、マイナス30kgのダイエットをしたことがある(そこからコロナ禍で更にマイナス5kg減らしたが、福岡に引っ越して15kg太った)。
彼に対する好意や熱は既になくなってしまったが、ユニクロのXLサイズさえピチピチで球体のような女だったわたしがSサイズの服を着られるようになったことには今でも本当に感謝している。

あの日、彼に干されなかったら私は今でも球体でしまむらの「大きいサイズ」と書いてある一角でしか服を買えない人間のままだったかもしれない。
当時、出張先でスーツが破れてしまい買おうと入ったスーツカンパニーに私が着られるサイズのスーツが一着もなく恥ずかしい思いをしたことがあるが、今ならスーツカンパニーでスーツを買うこともできるだろう。
(なんと、いまスーツカンパニーはスーツスクエアと名前を変えているらしい、時代だ)

ちなみに、痩せたおかげでファンサをもらうことができた!
⋯⋯ということは、なかった。

痩せてもファンサはもらえなかった。
いま思うと、当たり前だ。
アイドルは客を容姿で選り好みするにはあまりにも多くの観客を前にしている。
目の前に5万個の飴があったとして、手に取るものを見た目で選ぶだろうか?

あんなに頑張ってダイエットをしたのに。
ファンサが良いと評判の彼にファンサがもらえない。
わたしの何が悪いのか。

そう嘆いていると、友人に「うちわを持って固まっていても目に入ることはない、動け」と言われ、半信半疑で目の前を通る自担に作り笑顔で(嬉しくないわけではないのだが、緊張で顔がこわばってしまうのでなんとか無理やり口角をあげていた)ブンブンとうちわを振ったら、なんと、自担の顔がぱっと明るくなり花が咲くような笑顔で手を振ってくれたのだ。

そこからの私は、正直ファンサでかなり無双した。
とある大阪の公演ではファンサうちわを次から次にやってくれるので全て消費してしまい、最初に出したものをもう一度出したら、口パクで「もうやった!」と言われたほどだ。
結局、痩せたからといってファンサをもらえることはなかったが、痩せたおかげで自信がつき自分を見られることを受け入れたことが大きかったのだろう。

このときのわたしは有頂天だったが、だんだんと「見る幸せ」を「見られる快感」が蝕んでいくのをはっきりと感じていた。

当時の彼はジュニア内のユニットに所属していたが、私たちファンにはわからない何かをきっかけに、そのユニットは名前を失った。
ジュニア内のユニットが「解体」されることはよくあることだったが、彼ら6人はあまりにも多くの同じ時を過ごし同じ記憶を共有していたため、反発が大きかった。
私が何を犠牲にしても好きだった人は、目に見えて、やりたくない仕事をやりたくないという態度でこなすようになった。

私は、まるで力感がないように見えて頭からつま先までピンと張り詰めて踊るあの美しさを知っているというのに。
しなやかに回るピルエットのぶれなさも、ミリ単位で整えられた手の動きも覚えているというのに。
なぜ誤魔化せると思うのか。なぜ「それでいい」と思って差し出そうとできるのか。

公演のあと、納得できない気持ちで現場をあとにすることも、増えた。

パフォーマンスが全力じゃないことが、ただただもどかしかった。
つらいのはわかる、でも私はつらいのを見るためにお金を払っているわけではない。

それでもうちわを見つけると手を振ってくれるから足を運んでしまう。
見たいものが見られないのに、見られるためにお金を払っていることに違和感を抱いたまま時は過ぎて、私はとうとう、ポキっと、折れた。

見られることは快感ではあったが、自分を幸せにはしないと、知っていた。
自担からは見えないドームの公演で、双眼鏡の先で、6割程度のパフォーマンスを披露しているところを見て、幸せが見えなくなったら、熱がなくなった。
線香花火の最後のようだった。

それから先、私は何度かジャンルを渡り歩いたが、見られることから逃れられたことはなかったように思う。
DISH//の現場には必ずサイン会があったし、芸人の現場なんて本人に行くと申告しないとチケットが取れないのだから当たり前だ。
そして今や大SNS時代、あらゆる演者はエゴサーチをするため、好きに感想を書くことすら難しくなってしまった。

見られることは、疲れるのだ。
自分を作り続けなければいけない。

友人が、ゆで卵は生卵には戻れないんだよと言っていた。
1度見られて、覚えられたら、もうただのファンではなく見たことがあるファンだ。
それはなかなか、消せるものではない。

と、ここまでグダグダ書いて叫びたいことは。
スペインの沼が(物理的に)遠くて健康によい~~~~~~~(←これ!!!

今のわたしは相も変わらず画面の前で悶え転がっているわけだが、本当に、画面の向こう、完全に断絶されていて好きに愛でられるの心身の健康に良すぎる。
わたしが行けない現場があることが耐えられない!!!という気持ちも「まあ、スペインだしな」で済むし、物語は私が何をしようが決まったとおりに進むのだ。

見ることしかしなくて良い、ってこんなに開放感があるんだ。
心の武装がいらない。幸せすぎる。

これまで、趣味の中でも対象にハンドルを預けることが多かった。
自分でコントロールできないものだからこそ脳は常に刺激的だ。

ただ、それと引き換えに摩耗も早い。
対象より自分の気持ちが先に行けばもどかしく、追いつけなければ苦しかった。
私は対象が速く走ってもゆっくり歩いても自分の歩幅や速度を変えずにいられるほど器用ではないのだ。

自分でも、不確定要素に自分の心の生殺与奪を預けるべきではないとずっと思っていた。
対象を好きでいる自分の寿命を縮めるからだ。

そんなところで自分の疲れを癒やしたのがNetflixでありスペインのドラマだったことは想定外ではあるのだが。

以前、北海道が遠くてつらいというような主旨の記事を書いたことがある。
出る杭は打たれるが出すぎる杭は打たれないのと同じ理屈で、遠すぎるとつらくない。
平日だから行けないだとか、直前すぎて行けないだとか、仕事が入ったとか、考えなくていいのだ。

家でひたすら「教授はいいぞ(教授はいい)」と思いながら、大きなテレビを買って本当に良かったなあと好きな顔を見ている。
教授を演じているアルバロ・モルテは身長が183cmで比較的長身なのだが、長身に見えないのは彼が下から覗き込むように周りを見ているからだという気付きだとか、ヤク中の廃人に擬態するためアルコールを口に入れて喉を潰す演出のあと本当に潰れた声で話す演技の緻密さだとか、2周目でも気付かされることは多いし3周目にも気付くことは出てくるだろう。

作中で教授が、平穏な日々に身を投じていられない人だと指摘されるように、私は恐らくこの健康に良く穏やかな日々を続けられる性分ではない。
明日には知らない何かに沼落ちして泥臭く追いかけ回しているかもしれない。

ただ、今はとにかく、常にチケットやグッズにお金が消えていき自分のことは二の次な自分ではなく、好きな香りのハンドソープを買ったり手触りが良い服を買って自分を労ることができるこの時間を大切に過ごせたら良いな、と思う。